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斜線のなかみ

柔らかな森

目を開けて、目を閉じて、また目を開ける。開けていても閉じていてもさほど変わりはない。開けていれば白い闇が、閉じていれば黒い闇が広がっているだけだ。

私がなぜここに居るのかといえばそれは自身が望んだことだし、気分はさほど悪くない。吸い込む空気は湿っていて、その微小な水滴は髪の毛にまとわりつく。膝下で広がる白いシフォンワンピースが同じ色をした風景に溶けていきそうだった。私は胸元に垂れる毛先に指を絡めながら、この明るい霧の向こうをぼんやりと見つめている。私は私の現実を放棄して、夜じゅう走ってここへ来た。いばらの草原を駆け抜け氷の湖を渡り、手足には幾つもの傷口が歌っている。くたびれた体を横たえると腐葉土の甘くいやらしい香りが私を慰めてくれた。10センチ先も見えない白い闇の中へ手を伸ばすと、小動物のような柔らかく温かいものに触れた。私はなんとなく安心して身を丸め、再びゆっくりと目を閉じた。

 

即興小説トレーニング初挑戦。お題は「昼間の霧」制限時間15分。さすがに気に入らなかったので加筆修正した。2ヶ月ぶりの創作。早く復帰したい。

さえずらない生き方

取捨選択する。もう少し考える。流さない。流されない。

自分の考えをまとめたい。生活を記録したい。日記で良いはずなんだけど、どうしても人目に触れる場所にしか書けない。自分のためだけに書くのは自由すぎて途方に暮れてしまう。手書きは美しくできないから嫌だ。遅いし。気付いたことをメモしておいて、少し考えてから書くことにしようと思う。

 

・料理をすること

私は料理をするのが好きなんだけど、それはどんな要素で構成されているのか。

①美味しいものを食べるのが好き

アニメ版の「銀の匙」を見ていて印象に残ったのが、味覚に自信があると言う若い兄弟に、彼らの親世代の人が「君たちの親がちゃんとしたもの食べさせてくれたからでしょ」って諭すように言うシーン。

私は父の仕事の関係で北海道の新鮮な魚介類を幼い頃から当たり前のように食べてきた。東京に出てきて初めて、美味しい魚介類を手に入れるのが難しいことを知った。鮭の切り身が高いのにパサパサだったり、鯵の開きが食べられないほど生臭かったり。魚介類が嫌いになる気持ちがわかった。だけどパサパサの身なら酒蒸しやホイル焼きにすればいいし、生臭いならスライスした玉ねぎと一緒に焼いてポン酢をかけたりすればいい。食材にあった調理をすれば美味しくなるし、私は美味しいものを知ってるからできる。そうしたい。

②思った通りの味じゃないと嫌だ

食事は順序とかバランスとか無意識の内にすごく考えながら行っている。だから思った通りの味じゃないと困るし不愉快。人に作ってもらったものはそれだけで美味しいものだけど、時々地域性か性格の違いか、見た目から予想できなかった味に戸惑うことがあって、それはけっこうストレスになる。自分で好きなものを好きなだけ入れたものは失敗しない限り自分の思い通りの味だからストレスがない。私は母から料理を習ったことはほとんどなく自己流だけど、母の料理と自分の料理が一番好きだ。外食も楽しいけどね。

③実験感覚で面白い

料理はいつも、作りたいものを食材から漠然と決めてレシピをざっと検索し、いくつかの気に入った要素を取り入れて作る。全て目分量。それでも不思議と何度か作っているものはだいたい同じ味になるし、思いつきでアレンジを加えるのも面白い。料理には色んな約束があるから、それを覚えて応用していくとだいたい味に反映されるからやりがいがある。調味料のさしすせそは本当に理にかなっていると思うし、下ごしらえをきちんとすると出来映えが全然違う。昔からの知恵も最新の知識もすぐ試せてすぐ結果が出て、成功したら美味しいなんて最高だな。

④美味しく食べてくれる人がいる

夫とは結婚する前から幾度となく一緒にご飯を食べている。彼の味覚は確かだと思うし、少なくとも私と合う感覚だと思う。なのに、私の料理に決して文句を言わない。「失敗しちゃった」と言っても「そう?」って感じだし今日何食べたい?ってメールには必ず具体的な返信をくれるし。ありがたい。正直これが料理を楽しめてる一番の理由だと思う。一人だとお菓子か丼しか食べないもん。ありがたい。

 

・年をとったということ

自分が20代後半になったということは、5歳以上年下の人が成人したということで。その感覚がまだ掴めなくてびっくりしたり上手く立ち回れなかったりすることが増えてきた。ジェネレーションギャップというやつ。自分にとっては当たり前のことを相手が知らなかったり、もちろん逆もある。そういうことに遭遇した時にムッとしちゃったりするの、すごく良くないと思うんだけどついね。慣れたい。

あと、こういうこと言う大人になりたくないなーと思ってたことを反射的に言ったり思ったりしてることもある。気をつけなくちゃいけない、とも思うし、大人になっちゃったんだから仕方ない、とも思う。

年齢とは関係ないけど、相手を喜ばせる話し方をする人って本当にすごいよね。それで本人も楽しいなら素晴らしい。聞き上手な人と話すととっても楽しいけど、実は上手なだけで「いつまで喋ってんだよ」ってうざがられてたらどうしよう、と心配になるし実際そういう人もいる(そういう時もある)のを知ってるからふと怖くなったりもする。気遣わないでよ、社交辞令はやめてよ、って思う。だからっていつの間にかブレーキが壊れていて本心ばかり言う私もどうかと思う。人と会うことをやめられないのに、会話はどんどん下手になっている気がする。だから書くね。

人でなしの恋

どうやら私は「結ばれない(結ばれてはならない)恋」の物語が好きらしい。

とは言っても、身分の違う同士だとか親友の恋人が相手だとか、そういうのではなくもっとファンタジー寄りの。

吸血鬼、人魚、妖怪、アンドロイド、化狸、などなど。色々あるけれど人間ではないものとの恋に惹かれる。それは、「恋」とは何なのか。二人でどうなりたいのか。そういうことを真剣に考えるストーリーになることが多いからだと思う。私は人間に興味があって、人間が人間を好きになるということに興味がある。描かれるのが異形であっても、人間の描いた、どこかを特化させただけの人間だと思って見ている。異形のものの背負う運命や哀しみは、形が違うだけで人間の運命や哀しみなのだと思う。だから異形は恋以外でも人間を深く描くのに適したキャラクターなのだけど(そもそもファンタジーそのものが人間を深く描くためのメタファーであるべきだと思う)今回はそれは置いておいて。

 

まず「恋」と「恋愛」を私なりに定義をしてみる。

「恋」は相手をその他大勢より好きになること、自分が一番そばに居る存在になりたいと願うこと。

「恋愛」は両想いになってから結婚するまでのありきたりなプロセスのこと。

 

つまり「恋」は片思いである。相手を思うこと。それで完結。

人間と人間の関わりはその一つ一つがオリジナルで、名前をつけることなんて本当はできないのだけど、わかりやすいし方向性を定められるから「友達」とか「恋人」になるわけで。

普通の男女なら「恋」をしたとき次に望むのは「恋人」になること。それが社会の通念。動物としても、子孫を残すために惹かれた相手とつがいになるのは当然。

しかし。相手が人間じゃなかったら?タブーとされる存在だったら?

共同体の中での幸せを望めなくなる。身近な、親愛なる人々を失望させ状況によっては敵にすらなってしまう。(少なくとも純血の)子孫を残せなくなる。社会的な幸福と動物としての本能、それよりも優先される「恋」という強い思い。それは何なのか?彼、彼女の望みは何なのか?

私には人間の行動を動物と比較して考えるくせがあって、そうするとだいたいのことは納まりがつく。しかしその、動物的本能からどうしてもはみ出してしまう、理解不能な行動こそが人間らしさなんじゃないか?私はそれこそを愛おしいと思っているし、もっともっと知りたい。そして描きたいと思っている。

 

最初に異形の恋のことを書いたが、実は人間同士でだってその物語は起こりうる。同性の恋というやつだ。でもそれだって頭を使わない、異性との恋になぞらえるだけなら私の興味はそそられない。二人だけの関係性を見つめ、二人だけの在り方を模索し、迷い傷つきながら進む。最後には別れることになっても。そういうのが私は好き。だってなんかもうすごく人間っぽい!

 

もちろん社会の一員として生きている限り、周囲の人間の示す価値観の中で幸せを見つけるというやり方は真っ当だし、私だって理解できる。私は「恋愛」したしそれを「結婚」という契約で具現化させた。「恋愛」はやっぱりきらきらしてたし、「結婚」して数年経った今も幸せだ。「恋愛」自体を否定したいわけじゃない。ただ私が思うのは「恋」と「恋愛」が全く別のものだということ。

私は「恋」ほど破壊力のある感情を知らないし「恋愛」ほど面白いイベントはないと思う。ただ混同したらもったいないって気がするだけ。だって「恋愛」なら自分で体験すればいいじゃん。それが一番面白いよ。

物語にするのなら、物語を読むのなら、人間が人間たるゆえんの一つである「恋」を見つめようじゃないか。美しくて純粋で、醜くて穢れている、まるで人間そのものだもん。

 

ロックンロールじゃ踊れない

 

お湯を飲んでいる。

夕方からダラダラと無為に酒を飲むのをやめて、冷たい飲み物を避けるようにした。

必然的にビール発泡酒は飲まない。寝起きと寝る前はお湯を飲む。日中喉が渇いたら、お湯かお茶か紅茶を飲む。コーヒーは体が受け付けなくなって久しい。

出掛けるときはサーモスにお茶を入れていく。粉末のお茶を熱湯で溶かし、飲みやすいよう少し水も入れておく。

晩酌はいいちこのお湯割り。もしくは常温の赤ワイン。それもたくさんは飲まない。

調子は悪くない。日課のように腹を下していたのがおさまり、毎年9月から感じる足先の冷えもない。酒を飲み過ぎないこと、バイト先まで歩くこと、新しい家の居心地が良いこと。お湯だけの効能ではないと思うけれど、まあ効果はあるようだ。私は胃を良くしたいし代謝をよくしたい。姿勢もよくなりたい。要は健康になりたい。別に病気ってわけではない。

そもそも。

猫背になったのも目が悪くなったのも胃弱になったのも、ぜんぶぜんぶ根暗なロックに傾倒したせいなのだ。

中学〜高校の大事な成長期に前髪を伸ばし必要以上に猫背になりながら本を読み絵を描いた。ガリガリで猫背で前髪の長い、きれいな目をしたバンドマンの男の子たちに憧れた。大学に入ってからは酒を覚え、浴びるように飲んだ。ほぼアル中でやることなすことぶっとんでいる、ロックンロールな人たちに憧れた。

それから数年、私は結婚し、日々料理をし、猫を飼い、植物を育てながら穏やかな暮らしをしている。それでもつい最近までは、もうひとりの自分に引き裂かれるような痛みを常に感じていた。だけど痛みを感じることに安心もしていた。これを失ったとき私は死ぬのだと思っていたからだ。

今は一応落ち着いている。時折不安になって外で酒を飲みまくったりロックンロールに想いを馳せたり、恋に幻想を抱いてみたりする。だけどそれは虚しい。もう過ぎたことなのだ。輝きは戻らない。(私が今死んでも)ああ私は、ロックを必要としない体になってしまった!

そんな風に絶望しつつ、拙いながらも身につけた表現方法を駆使する。一人でいつでもできる。始まりから終わりまで自分でやれる。それが物語を描くことであり、引き裂かれた自分を結晶化して閉じ込めておく場所なのだと思う。

映画をたくさん見れるようになった。分析したい部分がわかった。こうやって自分のことをすごい勢いでブログに書ける。しかも酔っぱらってない!なぜならお湯を飲んでいるから!

ちょっと寝付きは悪くなったけどいいよね。胃が強くなったらまたいっぱいお酒飲もうね、と失った仲間たちに私は語りかけるのでした。

シェルター

 雨が降っている。窓を叩いている。季節外れで寝ぼけ顔の、巨大な台風が呼んでいる。
 私は誘惑に抗うように、ガラガラと雨戸をしめた。そうするとなんだか温いような重みのある空気が耳から肩の辺りを覆った。私の部屋。閉ざされた空間。シェルター。
 間接照明のオレンジが白い壁を頼りなく照らしている。水槽の中でエアレーションが鳴っている。雨音は遠い。熱を出した時みたいに、全部の輪郭が曖昧だ。音も光も空気も足りない私のシェルター。少しだけ息が苦しくなって少しだけ目眩がする。私はざらざらする壁にもたれかかって、ふうと息を吐く。それからそっと手を伸ばして、棚の上で埃をかぶっている煙草の箱をつまみ上げた。弓矢が描かれた小さな箱。射手座の私が生まれて初めて口にした煙草。私はそれを持ったままクローゼットを開ける。少し湿った懐かしい匂いが鼻先を掠める。奥の方に掛かっている黒いアンゴラのコートをつかまえて引き出す。そのコートのポケットの中には銀色のライターが入っている。私はクローゼットを閉じ、再び壁にもたれながらゆっくりと、手順を確認するように煙草を取り出して火をつけた。苦くて渋くて香ばしくて甘い煙。動かない空気の中で煙は所在無さげに漂いながら薄く拡散されていく。その白っぽい視界の中で去年の冬の風景が8ミリフィルムの映像のように淡い色調で再生される。かさついた手の感触や朝日に照らされた髪の色や肺が痛むくらい冷えた空気や古いセーターの干し草のような匂いや。薄い唇の味や背中の滑らかさや首筋の熱さや閉ざされたまぶたのふちの睫毛の長さや。私の名前を呼ぶ声や。
 煙草の灰が足元に落ちた。強い風がごうと吹いて私がしめた雨戸をやかましく鳴らした。煙はいつの間にか消えていた。

さよならKENWOOD

CDコンポの購入を検討している。

私はわりと音楽が好きな人間だと思うのだけど、それなら何故コンポを持っていないのか。

4年ほど前、私は婚約者と同居するために当時1人暮らししていた部屋を引き払った。その頃の私は物を持つのが嫌で、嫌というよりなんだか怖くて、なるべく所持しないようにしていた。要らないものはすぐに捨てる主義だった。

引っ越しの当日、私は知人に冷蔵庫と電子レンジを譲り、貰い手のなかったコンポを捨てた。それは高校生の頃、新しいコンポを買った両親から譲り受けたもので、たしかKENWOOD製で、CDとMDとラジオが聴けるものだった。電源を入れると小さな画面から「HELLO!」と挨拶してくれるカワイイやつだった。

高校の頃から大学卒業まで不調もなく、上京して一人暮らしを初めても活躍は続いていた。高3の頃はたしか死ぬ程THE BACKHORNを聴いていた。大学時代はゆらゆら帝国とBLANKY JET CITY。ゆら帝のアルバム『3×3×3』を初めてかけた時、あまりに音がでかくてかっこよくてびっくりして慌てて停止ボタンを押して深呼吸したことなんか思い出す。一人暮らしを始めてからは毎朝5時に起きてandymoriの1stを流しながらコーヒーを2杯飲んで仕事に行っていた。

こうやって思い返してみると色んな思い出がある。しかしその当時の私は、そういう、「思い」みたいなものにがんじがらめにされるのが怖かった。

婚約者はCDを山のように持っているし私より音楽が好きだろう。だから当然気軽にCDを聴ける機械を持っているはずだ。広くもない家にプレイヤーは2つもいらない。思い出の面はシャットアウトして私はコンポを捨てた。

ついでに持っていたMDも全部捨てた。これからMDは廃れる一方だろうし持っていても聴かないだろうって。MDにだってたくさん思い出がある。毎週レンタルショップに通ってCDを借りては録音した。片思いしていた人にもらった宝物のようなディスクもあった。私はそれらも全て捨てた。思い出や過去の自分は常に捨てていかなければならないと、強迫観念的に思っていたからだ。

大概のものは目の前から消えたら忘れることができる私だけど、コンポとMDだけは4年が経過しようとしている今でも後悔している。

まず引っ越してみてわかったのが、婚約者が気軽に使えるCDプレイヤーを持っていなかったこと。CDJとアンプやら何やらが繋がれていて、音質は良いのだけど私にはどうしても使いこなせなかった。言われた通りにやっているのに何度試しても音が鳴らない。

私は自由にCDを聴けなくなった。iTunesじゃダメなのだ。パソコンで流すと何故だか憂鬱な気分になる。鮮烈な思い出ではなく鬱々とした日々を思い出してしまう。イヤホンやヘッドホンだとすぐに耳が痛くなる。

ほどなくして地デジ化の影響でテレビを買い替えることになり、ブルーレイドライブ搭載のものを購入した。それはCDも読み込んでくれたから私はテレビでCDを聴くようになった。それでも読み込みは遅いし、満足はしていなかった。

そして今。

結婚して3年半が経ち、私はまた引っ越しをした。今度はそこそこ広い家だ。自分の部屋も与えられた。今こそ一人で気軽にCDが聴けてそれなりの音質のコンポが欲しい。1万円以上出したくないなーと思いながら検索していたら、amazonに値下げ価格6千円台のものを発見した。評価もまずまず。見た目も好きだし、なによりメーカーはKENWOODだった。

新しいアルバイトの給料日の関係であと1ヶ月は購入できない。それまでこの価格の品が残っているかは疑問だけど、買えたらいいな。また「HELLO!」って言ってくれるかな。

石鹸で顔をあらう

マーガレットズロースの歌に「ぼくの彼女はいつも石鹸で顔を洗う」という歌詞がある。

変な石鹸で全部洗ってるのにどうしていいにおいがするんだろう、みたいな歌詞。

私は子供の頃から肌がきれいと言われてきて、それは特別肌に気を使わなくても言われてきたことで、でも20を越えるとさすがにケアをしなければ保てなくなった。私は肌が荒れることを恐れた。

スキンケアに興味を持った私は見た目の可愛さと自然素材への安心感からLUSHの製品を使うようになった。

スクラブ入りクレイ洗顔はさっぱりしていて洗い上がりがよく肌が柔らかくなったような感じが気に入り、それから数年間使用を続けた。

その間ボディソープ、液体シャンプー、固形シャンプー、ボディバター、ボディパウダー、バスボムなど色々な製品を試した。バラエティ豊かな商品を選ぶのも楽しく市販のものに比べると値段も高い分効果を感じる事もできた。

しかしどうも私にはあのお店のキャピキャピ感や強烈な匂いが苦手で、それは数年利用しても変わらない感覚だった。

そこへ、正しい洗顔方法はよく泡立てた洗顔料をたっぷりのせ、手の平が肌につかないくらい優しくこすらず洗う、というのを耳にした。私は怖くなった。スクラブ入り洗顔料はいくら優しい素材を使っているといっても肌に負担をかけているのではないかと心配になった。若いうちはいい。例えばそれがダメージだったとして、年を取ってからどうなるか。

LUSHの一号店が日本にオープンしたのは1999年。その頃から使い続けている人がいるとしても13、4年。そもそも若い人向けのブランドだと思っていたし、私は卒業を決意した。

で、同じくらいの価格帯で店舗数の多いBODYSHOPの商品を使ってみることにした。近くのお店の店員さんに相談すると落ち着いたトーンで丁寧に接客してくれたので気を良くし、洗顔料とシャンプーとコンディショナーを購入した。

全部一番しっとりするものを選んだのだが、洗顔料は洗い上がりに少しつっぱる感じで、シャンプーは肌に合わず、ちょっと残念な結果だった。それでも顔の肌のトラブルは起きないし、コンディショナーの香りが好きだったから利用は続けた。シャンプーは行きつけの美容室でさらに高級なものを購入して使うようにした。(それはさすがに使い心地も仕上がりも良い)

私は毎月美容室に行きたい人間なのだけど、毎回カット+カラーもしくはカット+パーマなのでだいぶお金がかかる。そんなに安い店ではないし。(お気に入りの美容師さんについていって店舗を変えていたらどんどん値上がりしてしまった。笑)

しかし髪は痛むし肌もケアが追いつかない。美容にどんどんお金がかかる。かけなくては崩れる!という恐怖に駆られていた。

美容室、洗顔料、シャンプー、コンディショナー、その他化粧品。毎月バイト代の約半分が給料日直後に消える。それに気付いたとき私ははたと我に返った。

肌と髪を甘やかし過ぎだと思った。これでは年をとってより機能が落ちたとき大変なことになる、と。その場しのぎじゃなく、基礎的な力をつけたいと思った。

帰省したときにBODYSHOPの洗顔料を忘れてきたのをきっかけに、薬局でアレッポのオリーブ石鹸を買ってみた。ネットを使えばよく泡立つし、飾らない香りも嫌いじゃなかった。でも顔には今までほとんどできたことのない吹き出物がいくつかでき、体もかゆくなった。洗い方が足りない!とかすすぎが足りない!とか自分を叱咤しつつここ1ヶ月くらい使用を続けている。顔の洗い上がりの感じはしっとりしていて、冬場ならよかったのかも…

本当は髪も石鹸で洗って酢水で流したりとかしたいし美容室極力通わないようにしたい。でもそれは外に働きにいかなくてよくなったら試せるかな…そのくらい勇気いる。

今は額の真ん中の吹き出物が潰れて赤くなっているのが辛い。インドの人かよ。もう挫けそう。やっぱりお金かけなきゃダメなのかな。体はアトピー体質だからなんとかオーガニック石鹸と綿タオルでやっていきたいんだけど…泡立たないし、もー!という感じ。

はあもう夏が来るし。LUSHのこと少し悪く言ったけどボディパウダーは使用感も香りもとってもいいので今年も買うつもり。じとじと暑い季節もココナッツの香りのさらさら肌になれる。あれはオススメ。

全然詳しくないのに長々書いて気を悪くした方いたらすみません。あくまで個人の感想です。

お化粧も楽しいけどスキンケアの方が大事だと思う。と言いつつそろそろBBクリームだけでは隠しきれない毛穴やなんやらが気になるからファンデも勉強しないと。こういうお話できる友達ほしいな。